書き手が能を観て感じたことを 
つらつらと書いてきましたが

最後に
その道のプロが 
能の神髄について語られていることを
ご紹介したいと思います

能の創始者である 
観阿弥・世阿弥の血をひく

観世流 第26代家元 観世清和さん

面をつけずに舞う観世清和さん

この方が「能はこんなに面白い」
という本を出版され
初心者にもわかりやすいように
平易な言葉で 
能について語られています

>「能はこんなに面白い」という本の表紙

能の解説書は難解な傾向がありますから(苦笑)
こうした解説は貴重です

<複式夢幻能>

世阿弥が考案した 
二部構成の舞台形式
この独特の形式により 
夢の世界が展開されます

複式夢幻能を説明する図

前段では

まず諸国一見の旅の僧がワキとして登場

とある土地に到着して
その地方にまつわる物語などを
思いだし 語ります

ワキとして登場する諸国一見の旅の僧

そこにいわくありげな人が通りかかり
僧に向い 
その土地の由来や物語を語り

自分こそが
そこに描かれた当の主人公であることを明かして
消えてゆきます

僧に語るいわくありげな人

後段では

僧が宿に着き 
疲れて眠りにつくと

前段で登場した人が
生前の立派できらびやかな姿で現れます

この方がシテ
過去のいきさつを語り 
情念たっぷりに舞を舞い

情念たっぷりに舞を舞うシテ

そして 僧
侶に供養を頼みながら消えていきます

僧はそこで目を覚まし
今見たものは全て夢であり
自分はひとりそこに残されていることに
気付くのです

目を覚まし 今見たものは全て夢であり 自分はひとりそこに残されていることに気付く僧

これが 能の舞台の形式です

<死者や幽霊が主人公の演劇>

能の多くは 無念の物語です

成仏できない者が 
無念を語ることが多く

シテが演ずるのは
志なかばに倒れた者 
思いを残して世を去った者 
虐げられて葬られた者

成仏できない人を演じるシテ

既にこの世を去った者が
生前の輝かしい姿で 
再びこの世の人の前に現れる機会を与えられ

私はこのように生きた 
ということを示し

私を忘れないでくれ 
とメッセージを残して 

消える

舞うシテ

こういう劇的な展開は
複式夢幻能という形式を持ったからこそ
できるもので

これが 
日本人の心に深く共鳴するとされます

つまり 能とは

鎮魂の芸能 生命の賛歌 

弱者の声に耳を傾け
かつて彼等が生きた時代を
ひととき舞台の上に甦らせ
その生命の輝きを讃える

そして 
亡き者の悲しみを鎮め
明日への力となり 
常に人の心に寄り添う

こうした 
亡き者の供養 追善供養の心は
日本人の心の原点であり 
日本人の心の優しさの表現でもある

だからこそ 
日本人は能を観て共感できるのではないかと
清和さんは語られます

語る清和さん

しかし 
シテは また苦しい冥界に戻っていきます

彼等の苦しみを共感し 
供養することはできますが
その苦しみを解決する手立ては 
何も示されないのです

書き手は この点も 
能の大きな特徴だと思います

能は 不条理劇かもしれません

シジフォスの神話の本と 作者のカミュの写真

学生時代に 
カミュのシジフォスの神話を読んで以来
ちょっと不条理フェチの書き手は(苦笑)

だからこそ 人は能に魅かれるのでは? 
と感じています

シジフォスの神話で描かれた ひたすら山の斜面で岩を押し上げる人の姿

<省略を美とする演劇>

能の特徴は 
全てが極限まで省略されていること
だそうです

舞台装置 役者の所作 舞の型

装飾のない簡素な能舞台

その全てから

具象的なものを徹底して捨て去ることで
舞台上に純粋な情念の世界を表出する

ことを 意図しているそうで

絵画で言えば 
具象画でなく抽象画の世界です

抽象画の絵画

省略し 余白を作り 
そして余白に語らせる

そうした余白を
作者と鑑賞者が想像力の限りを尽くして 
完成させる

ここも 能ならではの 
大きな特徴なのでしょう

日本文化は 
余白に語らせる文化であることは
以前に扇子のお話で紹介しましたが

余白が大きい襖絵

さらに加えて
能の舞台が 
役者と観衆の双方向性により成り立っていること

これも大きなポイントだと思います

余白があり 抽象だからこそ
観る者に解釈の余地が与えられ 
心情的に舞台にコミットできる

面白いですね

共演者と合わせるという発想がないことも
能の大きな特徴だそうです

合わせようとすれば
表現に余計な要素が入り込んでしまうので

互いの表現に意識を向けてはいるが 
合わせようという配慮はない

それぞれが表現をぶつけ合い 
そこから新たな世界が創造される

そして 微妙なズレが味となり 
表現の豊かな奥行になる

なるほどです~

能舞台

役者だけでなく 
地謡方や囃子方も 
合わせません

指揮者は存在しませんから
他の謡てや奏者の 
呼吸 気 息を五感で受け止めて

それに応えて 
歌や演奏を行っていく

うーん 
ちょっと難しい世界のようにも感じます(苦笑)

省略によって生まれた余白

敢えて合わせようとしないことにより
生まれたわずかなズレ

能はそれらに美を見出し 
それこそが日本の美意識であり

役者は内在するエネルギー 
内に込めた心の力をもって演じる

のだそうです

うーん

良く言えば 奥が深い

意地悪な言い方をすれば
抽象的すぎて 
難しくてよくわからない

でも 何回か経験すると
また観に行きたくなってしまうのですよ

不思議なものです(笑)

そういえば

この4月に銀座4丁目にオープンする
松坂屋のあとに建てられたGINZA SIXのなかに
観世能楽堂が出来るそうで

GINZA SIXの能舞台

東中野の能楽堂も 
雰囲気があって良かったのですが
銀座に出来てくれると近くて便利なので
観に行く機会が増えるかなと 
ちょっと期待しています

でも 開場記念公演の”翁”は
あっという間にチケットが売り切れで 
行けませんでした(苦笑)

能は未体験の読み手の方がおられたら
あの不思議な雰囲気を
ナマで経験されることをお勧めします!


高橋医院